糸井重里(いといしげさと)さんが主宰するウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」で書かれている「今日のダーリン」。ほぼ毎日更新されているエッセイです。数分で読み終える丁度いい長さで、毎日のちょっとした時間におすすめします。
本当にいろいろな内容を書かれる糸井さん。
「え!?」・「なるほど~」・「くすっ(笑)」となるバラエティに富んだ内容。時には、真剣に考えさせられる内容もあります。
今回は、印象に残ったひとつの記事をご紹介したいと思います。
今日のダーリン(2014.05.29)
『かないくん展』が、たくさんの人を呼んでいるらしい。
大好評だった『はたらきたい展』を超えたとかいう。
海外にいて、そのニュースを聞いたのだけれど、そうかぁと感無量なものがある。
もともと、「死」をテーマにした絵本をつくりたいと思ったのは、それが避けられすぎていると思ったからだ。
例えば、ぼくが、冗談めかして「おれが死んだらさぁ」とは言えるし、聞いてもらえる。
しかし、冗談のふりをせずに、「おれが死んだら」という話をしようと思っても、なんとなく、話をうやむやにされてしまうことが多い。
つまり、「縁起でもない」ということだし、「あんたの死を望んでないのだから、話したくない」という話の流れになってしまいやすいのだ。
それはそうなんだけど、必ず人は死ぬんだから、「死なないかのように」生き続けるというのは、かなり不自然なことなんじゃないかと思うのだ。
「死ぬってさぁ‥‥」と、多少なりとも、じぶんなりに考えることをしてほしいし、必ずやってくる「死」について、
誕生を祝ったりするときのように話しあってみたい。そんな気持ちがあってのスタートだった。
死ぬということは、「ぼくのいない世界」が現れること。
しかし、思えば、もともと「ぼくのいない世界」だった。
たったこれだけのことを想像するのに、ずいぶん時間がかかったような気がする。
『かないくん』という絵本や、松本大洋さんの原画を中心にした展覧会のせいで、
じぶんの時間、人と話をするほんの少しの時間を、「死」のためにつかってみたら、いまここにある「生きている」ということが、ずいぶんおもしろく見えてくるんじゃないか。
そんなことを思うのだ。
真顔でじぶんや他人の「死」について語れたら、それは彼が何歳であっても、大人だという気がする。
【ほぼ日刊イトイ新聞 今日のダーリン 2014.05.29】
私は、ゆっくりと何度も読み返してみました。もちろん、人によって受け取り方は様々だと思います。
葬儀社スタッフとして、実際に様々な最期を見届けてきました。「精一杯生き抜いた死」もあれば、「事故などによる不幸な死」もあります。
残念ながら、人はどんな結末を迎えるかを選択できません。
最近では、終活・遺言書・生前整理など、自分の葬儀や残される家族のことを前向きにとらえる方は増えていますが、やはり自分以外の大切な人の「死」に関しては、自らすすんで向き合うことは避けたい気がします。
- 必ず人は死ぬんだから、「死なないかのように」生き続けるというのは、かなり不自然なことなんじゃないか…
- 死ぬという事は、「ぼくのいない世界」が現れること。…しかし、思えば、もともと「ぼくのいない世界」だった。
分かる部分もありますし、スッと心に入る感じもすれば、どうしても入らない感じもします。もっと年齢・経験を重ねれば違った受け取り方ができるのかも知れませんね。
「ぼくのいない世界」が現れる。でも、もともと「ぼくのいない世界」。
皆さんは、どう感じられたでしょうか。